謝罪・追悼・母の臨終・つぶやき

  • 2017.06.24 Saturday
  • 23:34

2017年6月24日(土)

 

謝罪・追悼・母の臨終・つぶやき


 

伏せりながら書いた長々つぶやきです

お時間のない時にはお読みになりませぬよう…

 

//

 

昨日…某 有名人さんが

乳がん・転移で亡くなった…と

スマホポロン と鳴って

Yahooニュースが知らせて来ました

 

私はそのかたのブログを見たことはないです

 

そのかたの…同じ病たくさんのかたの苦しみ。違う病の…たくさんのかたの苦しみ…たくさんのかたのの苦しみ

 

 

自分など比べものにならないほど苦しみ…を抱えるたくさんのかたがたがいらっしゃる

 

自分はつぶやきを書くくせにの闘病記は、どなたのも読んだことがなく…。誰かお一人だけのつぶやきを選ぶことができず、特に有名人さん。のブログを読んだことは一度もなく

 

しつこくてごめんなさい ^^;  ↓

 

自分は2012年からつぶやきを書いています

 

記憶の記録のため…なのかな

自分が弱いから…誰かに支えて欲しいから?家族がいるくせに欲深い…かな

 

//

 

Yahooニュースの そのお知らせには反応してしまい、いつもは観ないワイドショーを観ました

 

やはり…報道されていました。某 有名人さんのご逝去

 

ブログまで…(^^;; 一部がテレビ画面に大きく写し出されていました

 

同じ病で…この報道を観て聴いているかたの心のありようも危惧しつつ…観ていました

 

その有名人さん。まだ…34歳という若さ。。

34歳と言えば…私がピアノ教室を開いた時の年齢で、忘れもしない阪神淡路大震災の年…はかり知れない悲しみの

 

私はそれから22年以上生きられ、病気になってもピアノを続けています。医療に感謝です

 

//

 

乳がん・転移。。

 

同じ病で亡くなったのことをまた…鮮明に思い出してしまいました

 

母の命を盗りにくる死神から

守ろうとして

守り切れなかった

ホスピスでの最期の夜のこと

 

あの夜の…誰にも頼れず、母に付き添う者が他に不在で…ひとりぼっちでいた時間の悪夢…心の中でいつもループし続けています

 

 

母の病気は…手遅れになってから見つかった乳癌でした。多方に転移してしまいました

 

 

◆母をホスピスで看取った2012年5/1

 

発表会の翌日から3週間だけレッスンを休んで

ホスピスに泊まり込むことを

生徒さんに許していただき

家族にも許してもらい

ずっと母をさすり続けていました

 

もっと長生きすると信じていた兄・妹・私。

 

母自身が、子供たちの迷惑にならぬようにと自ら望んで入ったホスピス。

ホスピスを退院させて妹の家で介護する…そんな手配をしていました

 

最期の時を迎えることなど信じられなくてホスピスに泊まり込み、ひたすら さすり続けました

 

まだまだ、元気そうに思えたけれど母の終末期の苦しみ

自分の辛さを感じている今

当時ほんとにはわかってあげられなかったと後悔しています

 

 

母はまだまだ…生きられる。生きて退院できる!ような気がして…。

回復し妹の家で暮らすこと。最初は拒否していた母でしたが、だんだん、まだ生きられることを信じるようになって…

 

母は前向きになり

は泊り込み、さすり続け

は母の自宅受け入れ準備を。

は長男として母や妹達へチカラを。

 

ところが日に日に母は食べることができなくなり、口に何も入らなくなり

やがて水分を飲むことができなくなった時、私は知人在宅医療看護師さんに電話して訊ねてしまいました。

 

医者は余命を教えてくれない。食べられないのに栄養剤の点滴はない

 

その時、それが当時の私にとっては最大の…緩和ケアへの疑念で…転院または無理やり退院させてもらうことを考えて質問したのです

 

今ではわかっています。その状況での栄養剤の点滴はもっと短命にしてしまうこと。が、その時はホスピス側の対応に違和感がありすぎ、泣きながら医師にうったえたりもしました

 

この状況で栄養分を入れてしまうと癌がもっと活発になり本人が苦しむだけです

 

…という医師の説明に口出しはできなかったのでした

 

 

水分と痛みどめの点滴のみ。栄養を与えてくれない…餓死するのみではないの?

 

「食べられず、飲むことができなくなったら…あと、どれくらい生きられるの?病院側がおかしいんじゃないの???」 と、知人看護師に状況を説明し訊ねました

 

「飲むことができなくなったら…あと…2週間くらいかな…」

と、その知人の看護師さんからの言いにくそうな返答

 

それが母が亡くなる3週間ほど前のことでした

 

さすり続けて日は経ち、母は2週間を超えた母は死なない!

…と、命の永らえに奇跡が起こる可能性を感じました

 

ところが飲むことができなくなって3週間めに母の容態は急変

 

5/1の午前2時ごろ母の苦しそうな呼吸が始まりました

私は その はっはっはっはっ…という浅い呼吸が死のサインとは知らず看護師さんを呼びました

 

看護師さんはご家族を呼んだほうが」と。

 

…真夜中でした

 

私の兄妹や家族を呼ぶ電話での状況説明がヘタ過ぎた

もう死が近いことを電話で説得する勢いが弱かったのだと思います

 

逝去の日より11日前…4/19

危ないかも…ということで

子や孫が全員そろったとき、母は一度生還していたから…もあり

皆も母はまだ死なない!…と思っていたからかもしれません

 

私の真夜中電話の伝え方の下手さ

 

看護師さんはけっして 死が近い、とはおっしゃらなかったため、私が死の直前だと認識できていなかったからかもしれません

 

母と私だけの真夜中の部屋

 

兄妹も家族も来ない

医師は一度も来ない

看護師さんもそんなに頻繁には来てくださらない

 

 

泊まり込んでトイレの介護もありの患者さんは他にいらっしゃらなかったからでもあるかと思います

他の患者さんのお世話があるためなのはわかっていましたが誰かに支えていて欲しかった…。

 

 

誰も助けてくれない

医師も来てくれない

苦しそうなのに酸素マスクもつけてくれない

ホスピスって…むごすぎる

 

そういう風にしか感じられなかったです

 

 

看護師さんは間もなく母が死んでしまうこと、わかっていたはず。

死に関してはド素人の知識の無さと心がわかってくださったなら。

 

私が死の近さをわかってきたのは

はっはっはっはっ…浅い苦しげな呼吸が3時間ほど続いた時。

 

 

泣きじゃくりながら再度、兄に電話しました お母さんが死んじゃう

 

悠長な状況じゃないこと

本当に死にそうなこと

呼吸が苦しそうなのに

病院側が酸素マスクをつけないこと

医師も一度もこないこと。

 

 

兄は「わかった。すぐ行く!」

 

泣きながら母をさすり続けながら母の耳元で静かに…南国の花園や海の風景の話をしながら

 

看護師も医師も来ない

母を 誰も助けてくれない

世界中の誰からも見放されたような孤独感。

辛い地獄の時間でした

 

午前6時半ころ…兄が到着

 

すると。。

 

それまで目を閉じていた母が魔法にかかったように…かっと、と目をあけ、兄の手を握って、言葉にならない言葉を発し、また目を閉じた瞬間

 

みるみるうちに さーっと母の顔から血の気がひき土気色に。。

 

 

死ぬ瞬間、血が巡らなくなるって。

こんなにわかりやすい怖ろしい変化なんだ…と

悲しみというか不思議な虚無感に包まれ取り乱し私は声が出せませんでした

 

その時、兄が叫びました

まだだ! まだ死んでない!!お母さん!お母さん!! 戻ってこい

 

その直後 奇跡が起きました。

 

兄の叫び声に反応したのかもう一度だけ…ほんの数十秒間でしたが、母の顔に血の気が戻り息を吹き返したのです

途切れた呼吸が復活した時の何にも代えがたい歓び…

 

けれどまた呼吸は止まり

 

 

もう目は開かれることはなく

 

静かに…血の気がひき

土気色の母の顔には生きている色は戻ってきませんでした…

もう二度と呼吸が再開することはありませんでした

 

長男が到着して5分後に…逝った

 

きっと強い意志を待っていたのですね

そしてお別れを果たしたのですね

 

それから私はどれだけ泣いたのか妹が駆け付けるまでの経過記憶ないです

 

//

 

私の今までの親不孝。会いにもいかず仕事に明け暮れてた自分

 

それに比し

 

生前、父母に親孝行をたくさんし続けてくれたにはまだ幼い子がおり

母の死に目には間に合いませんでした

妹に申しわけなかったという思い

 

母の通院への付き添いは全て、妹がやってくれていたのに。私は仕事と家事の忙しさを理由に一度も。ただの一度も母の通院の同伴にいかず自宅へさすりにも いかなかったのです

 

私は自分の親不孝さに後悔一色でした

 

泊まり込みの さすりは二週間…4/16から5/1終わってしまいました

 

さすり・トイレ介助、母は喜んでくれていました。長女に毎日さすってもらえるなんて…と何度も母に嬉しそうに言われるたび、妹に申しわけない思いはつのりました

 

今までずっとお母さんの面倒を見ていたのは…お母さんを恋人のように大好きだったのは妹のほうだよ、お母さん。妹の前で…私が来てくれた…と嬉しそうにしないでお母さん。妹がかわいそう…

 

//

 

傷ましい福知山線事故から7年目4/25 には

 

少し認知症のようになりかけテレビをぼうっと観ていた母が急に私の手を握って

 

自分は幸せだ…と言い出しました

 

テレビの中の泣いている女性…事故で長女を亡くした…とあるお母様の涙を…痛感して母は私に言いました

 

この人は理不尽な事故で

長女を亡くして泣いている

 

それなのに自分は今

長女にさすってもらっている

 

自分はなんて幸せ…

 

 

母が私にくれた

最高のプレゼントでした

 

//

 

5/1の早朝に亡くなった母

 

最期の入浴をさせてあげるしきたりのホスピスで

妹と私でホスピスの大きなお風呂で母を洗ってあげました

 

ぐちゃぐちゃになった魔物に巣食われた患部

どんなに痛かっただろう

どんなに不安だったろう。

どんなに…

。。

 

母の遺言がひとつありました

 

自分が死んでも

遠隔地の実兄にも知らせないで。

近所にも知らせないで

夫(私の実父)の親戚にも知らせないで

あなた達の友人や会社にも知らせないで

 

 

哀しいほど小さな小さな葬儀

葬儀が終わるまで親戚にも友人にも 誰にも言わないで

 

母の遺言をまもり、葬儀まで誰にも言わずにいることは辛くて

ひとりにだけ心をこぼして

ひとりで泣いて泣いて湖ができそうなくらい泣いた数日とその後。

 

//

 

同じ病で母の半分未満の若さで亡くなった

小林麻央さんに追悼の意を捧げます

 

死のほんの何日か前まで飲むことができていたこと、テレビで報道していました

 

飲み込むことが相当な苦しみのはずの中、人参ジュースを飲み込まれたのだと思います。作ってくれたお母様へのできる限りの思いやりだったのだと思います

 

そしてお若い方の癌の進行の速さ。ただただ傷ましいです

同じ容態のかたがたくさんいらっしゃること本当に傷ましいです

転移する前の早期発見の大切さを思います

 

 

私も…肺腺癌が見つかったときには既に骨転移。癌髄膜炎・脳転移が判明してからいろいろな障害が出始めています

 

おとといから固形物を何にも食べられなくなり、例の ビタミンジュースだけ生きています

 

吐き気がひどく、平熱なのに頭の痛さからくる熱っぽさ・腰椎穿刺の直上の背中の痛み・だるい苦しみの悪化

 

レッスン中に吐き気が止まらなくなった今朝。9:25からレッスンしていましたが、嘔吐が激しくなり座っていられなくなり…12:45以降のレッスン急遽中止…

 

連絡がうまく行き渡らずご迷惑をおかけしてしまった複数の生徒さま…。ごめんなさい…(>_<) はこちらなのに。たいへんな思いをさせてしまったのに。。

 

あたたかい返信をくださって逆に励ましてくださって胸が熱くなりました ごめんなさい…ありがとうございます

 

実は今週 6/20の夜も…19:20以降のレッスンを急遽中止してしまってました

その時も嘔吐の酷さによる中止でした。ごめんなさい (>_<) 21:30からは多少回復して勉強塾だけやりました

 

 

風邪とか感染させてしまう嘔吐ではないです

食欲が復活することも確信しています

 

嘔吐が続いてる理由はおそらくトラマールというオピオイド系…(麻薬系)の薬の副作用だと思っています。痛みは遠のくけれど酷い嘔吐の連続

 

麻薬…というのは法律上の用語

オピオイド…というのは薬理上の用語です。

 

オピオイド=麻薬ではないです

日本の法律上での麻薬を含むことが多いですが、そんなオピオイド系の痛みどめの処方が始まっています

 

トラマール用心して服用しなくちゃ。体重は さらに 1kg減ってヤバさを感じています。ビタミンジュースより高カロリーな…自分が吐かずに飲める飲料見つけたとこです。それで頑張ります。私はまだまだ…頑張らなくちゃ。頑張ろう!目標があると強くなれます

 

長々書いてごめんなさい…今日、レッスン中止して帰宅して伏せっていたのだけれど眠れなく…家族とともにお掃除をして、記録、反芻、謝罪、追悼、現状…休み休み綴りました。読んでくださってありがとうごさいました…

 

眞對れいこ🐟

 

皆様からの最近の

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皆様からのコメント全部読んでいます

ありがとうございます

LOVEレターへの返事

  • 2013.02.09 Saturday
  • 02:10


2013年2月9日(土)

LOVEレターへの返事


3日前、生徒さんのお母様から

LOVEレターをもらってしまいました。
(*^o^*)

くださる時にLOVEレターです」と。



内容は…。

私がこの1月に作曲した「海系の」曲を聴いてくださって
感動してくださったと。

私の「母の死から3カ月」のブログを読んでくださったと。

ご自身もかつてお父様を亡くされ
それが同じ時間帯だったこと

その4日後に
お子様がお生まれになったこと…。



私は2日間
想いを思って
返事を書きました。

幾度も幾度も書きなおし

ひどく抽象的に返してしまいました。


もっともっと いくらでも
言葉はたくさん胸の中にあったのに…。



//

○○○○○様

 

いただいたお手紙

何度も何度も読み返しました…

 

LOVEレター

ありがとうございました。


 

魔の時間。

不思議すぎる怖さと虚しさ。

それを分かち合えるひとに出逢え

心は救いに出逢えた感じがします。

 

辛くて深くて宇宙レベルの漆黒の闇

哀しみの波にもってかれそうになった心。

 

取り戻して

何とかふんばって生きていく

 

最期の時まで
手でさすり続けることしかできなくて。


さっきまで生きていたのに。
息がすうっととまる。

いなくなるって何だろう?

 

でも命は波がまた連れてくる。

 

○○ちゃんが

4日後に生を受けたのですね…



お父様の旅立ちから3日は

哀しむために与えられた

恵みの時間。

 



4日めからは

貴女の死をやがて哀しんでくれる

新しい命の連鎖に

捧げてゆくための時間。

 

 

試練と恵みはきっと同じなのかもしれませんね…


 

いつかゆっくり

消えてゆく命の話

やってくる命の波の話

しましょうね

 



息が途絶え
命が消える

あの瞬間


思い出せば何度でも

涙を
さらっていった波がまた

打ち寄せる

 

心は海の満ち干に

浮かんだり

水没したり。


 

無限ループのような「時間」の話を

しましょうね…

 

本当にありがとう

LOVEレター

大切にします



//
 

今夜の空の星はどんなでしょう

夜の空気はどんなでしょう

夜の海は
きっと命の想い出を連れて
寄せてはかえす
 


//

さて今夜はまだ
睡魔には沈没できません。

明日も目覚めること
いつかは目覚めなくなる眠りもやってくること


忘却がやってきても
波はまた
寄せてはかえす


おやすみなさい

が、やすらかに言えるのはきっと
すごく幸せなことなのでしょうね



 

眞對れいこ☆彡

 

母の死から3カ月

  • 2012.08.02 Thursday
  • 05:47
2012年8月1日(水)深夜
(2012年9月6日 少し加筆・修正)


母の死から3カ月


いつの間にかもう8月…
今年も1年、経つのが早そう。

年々、1年の経過が早く感じられるようになるのは

分母が増すのに
分子が変わらないからなのでしょうか。


5歳児の1年は
人生の5分の1だから長い


10歳の子にとっての1年は
人生の10分の1
少し短くなる


20歳の若者にとっての1年は
人生の20分の1
だいぶ短くなる


30歳の大人にとっての1年は
人生の30分の1
あっという間に1年が過ぎる


どんどん
人の「1年」の感覚は短くなる…?

…ような気がします。


40歳、40分の1
1年ってこんなに短かった?


50歳、50分の1
ふけば飛ぶような短さ?


60歳、60分の1…


加速をつけて
「1年」は短くなり…。


でも、仕事など現役をリタイア後

時間に余裕ができたころの自分が
70歳になったら…
1年は人生の70分の1に
感ずるでしょうか…?


//

母は3か月前に78歳で亡くなりました。

つつましく清貧に生き
とても静かに
迷惑をかけずに
死後のすべての
ことをきちんと整理して
すべての準備をととのえて

静かに
逝きました。



サマーレスキュー 天空の診療所
という医療ドラマを観ていたら

右手の腱を断裂、緊急手術やら

主人公の母の命の逼迫
そして母の死やら…。


自分と重なって
眠れなくなりました


私の右手は
5年前の腱の断裂
まだもとには戻らず

障害は残ったまま…
ピアノも実は思うようには弾けず
(他のかたにはそう見えていないようですが…
私の右手にかなりの障害が残っていること)

心配してくれていた母は
3か月前の明け方に亡くなりました…


手術も断念し
癌を受け入れ
1年と半年…


母が亡くなる
あの夜1時前から6時半過ぎまで

あの朝が思い出されて…
しとど、涙にくれています



呼吸が浅くなって

ずっとさすっていて

ずっと手を握っていて



静かに静かに

最期の時が訪れゆく
静かで悲しい夜中と夜明け



兄も妹も

その時だけは そばにいませんでした

私ひとりでした…



ピアノレッスンを休んで
2週間そばにいました


亡くなる瞬間まで
2週間
病院でほとんど寝ずに付き添いました


朝6時半
最期の5分だけ
兄が間に合いました


管(くだ)にもつながれず
心電図モニターにもつながれず
医師にも見守られず

ひとりの看護師さんが
1時間おきにちょっとだけ来てくれていました



夜中の1時

母の呼吸があきらかに
浅くなったのを
気付いたのは

私でした


緩和ケアという
医療の性格上

呼吸が浅くなっても
臨死状態になっても


医師が来るわけでも
何か手をほどこしてもらえるわけでも

なにも無く


私ひとり心細く

ただ
そばにいて
手を握って
母に寄り添いました…


誰も何もしてくれない
宇宙空間に ぽーんと投げ出されたような

怖い孤独の時間でした

「呼吸が浅いの…」


と泣きながら兄にも妹にも
電話しましたが

死がせまっていること
予想していなかった兄と妹は


朝になってから来るつもりで



私はひとり
心細くて


あの6時間

静かな
静かな6時間


静かな部屋に
母の短く浅い息遣いだけが


時計の振子のように
静寂の中に聞こえていました。



そのことを
主人や子供たちに伝えようとしましたが

伝えられませんでした


心細さを
伝えられず今日に至っています



へんに強がって
私の兄妹にも伝えられず…
まだ伝えておらず…

一生、伝えられないかもしれません。


それがあまりにも切なくて
でも、誰にも吐露できなくて…。


私が母をほったらかしてしまった
20年

その間、妹はそれはそれは献身的に
母に尽くしていました。


私なんて…

母の最期の2週間しか
母のそばにいませんでした



母の亡くなる
あの明け方。


その時の

その夜中じゅうと
朝の心細さ


想像はできるであろうけれど
本当にはわからない


あの心細さと
寂しさと
不思議な時間と空間と精神


「心細かったこと」
「泣きたいこと」

本当の気持ちを言っていません。


きっと…

あの場にいた
あの時間を経験した者にしか
わからないかもしれない
不思議すぎる時間…

そのことを
どうやっても人に
描写したり伝えたりできないのです。


私の中では
あの数時間は
生涯
エンドレス・ループ


あの兄妹がいなかった
医師もいなかった
母と私だけの数時間が


気の遠くなる短いけれど永遠…


思い出すたび
心のやり場なく


誰かにすがって泣きたいけれど
それもできず

ぶきっちょな私は


ひとりになると
ぼろぼろに泣いています…

母がこんな風になってしまうもっと前
助けられる時に
助けなかった私


短く長く
最期まで付き添えたある種の幸せと
底知れぬ心細さ


世界中の誰も
母の病室にはいなかった


ひとり。
どんなに心がつながっている人がいようと


やはり
あの時だけはひとりでした


きっとそんな気持ちの夜を
母はひとりで何度迎えたことでしょうか…


助けられる時に
助けなかった私


悔いても悔いても
もう戻れません…


//

コンペの結果でみんな一喜一憂
嘆いたり喜んだり

でも私は一生懸命みんなを
思っています。


ひとりは
辛いから…

心がひとり、は辛いから…。


そして

ひたすら元気に見せて
元気そうに振舞っています


心のダメージに
押し潰されそうなのが本当なのに。


//

こんなです。

いつか
「スーパームーンと青い空」の本編(母のこと)

を書こうと思いつつ
書けないでいるのは


こんな複雑な胸中だからかと思います。


きっと、中秋の名月あたり…
書きます。

母の亡くなった日の夜が
スーパームーンだったこと

焼かれて天に昇った日が
底抜けに青い空だったこと


そして

いろいろなこと。



私はいつも
心に隙間風…




眞對れいこ


眞對れいこホームページ↓
http://www.shiroikabasan.com/



歌のリサイタルと母のこと

  • 2012.06.11 Monday
  • 11:59
 2012年6月11日
今日は近々に出演するコンサートのご案内…と
母のことを少し。

今月、歌のリサイタルに
ピアノ伴奏&独奏出演します

 2012年6月23日(土)

小岩井雅人
(テノール)

第3回 日本歌曲リサイタル

眞對れいこ(ピアノ伴奏)

ルミエール府中
コンベンションホール飛鳥にて
入場無料

開演:14:00
終演:15:00(予定)

〜プログラム〜


ゆりかご
出船
初恋
かやの木山の
叱られて
小さな空
椰子の実
秋の旅立ち
花の涙・・・ほか。

郷愁と懐かしさをそそられる
小岩井雅人さんの
美しい歌声。

先日
私の母が亡くなる5日前に
小岩井さんは母の病室にいらしてくださり
母のために歌ってくれました。

母は嬉しそうに胸元に手を合わせ
聴いていました


「ありがとうございます。
こんな姿で聴くのはもったいないお歌ですのに…
こんな姿で聴いて申し訳ありません
ほんとうにありがとうございました。
来年は、自分で歩いて
小岩井さんのコンサートに行きますね…」

と母は言いました。
隣で私は泣いていました

小岩井さんの歌は
母がこの世で聴いた最後の歌となりました…



島崎藤村の「椰子の実」。
母が女学生時代、長野に疎開していた時に
慣れ親しんだ懐かしい曲でした。

小岩井さんが帰られたあと
母は「どうしてこの歌を選んでくれたの?」と
私に尋ねました。

幼い日
母がこの歌を歌ってくれたのを
かすかに覚えていた私が
小岩井さんにリクエストしたことを伝えました。

母は6/23の小岩井雅人氏のチラシを見せて
と、眼鏡をかけて読もうとしました



私は「疲れすぎるといけないから…」
と見せてあげなかったのを
悔いています。

実は母はその前週、
いったん逝く寸前にまでなっていたのです。
なんとか持ち直しましたが

日に日に言葉も失いかけ
小岩井さんがいらしてくれたその朝も
思考も記憶も混乱していたのです。

私があることを思いつき
やってみたことがありました。

それが功を奏して奇跡的に
頭も言葉もすべて
一時的にですが
健常人のように好転したのでした。

母はそれがが嬉しくて

たくさんしゃべり
たくさんの宝物の言葉を私に残してくれました。

「私は貴女に、こうしてずっとさすってもらっている…。
ほんとうに幸せ。
嬉しい涙が出すぎてもうこれ以上出ないほど嬉しい。
ありがとうありがとう…」

そんな日でした。
小岩井さんが病室に歌いにいらしてくださったのは…。


その日を最後に
母は記憶が混乱してゆき

母は最期の旅立ちへむかっていったのです…

//
6月23日
泣かずに演奏できるでしょうか

小岩井さんの歌の合間に

私の独奏があります。

エルガーの「愛の挨拶」
モシュコフスキの「愛のワルツ」

//

小岩井雅人さん

老人ホームや様々な施設に年間400回も
訪問され、ボランティアで歌を歌っていらっしゃいます。

昨年は難しいオーディションを見事通過され
日本歌曲振興会の正会員に。

もし、お時間がありましたら
ぜひ、ご来場くださいませ。


眞對れいこ

スーパームーンと青い空(プロローグ)

  • 2012.05.09 Wednesday
  • 10:02

2012年4月〜5月

スーパームーンと青い空
〜プロローグ〜

 「『幸せ』はきっと思い出の中にあるような気がします。」

と・・・
今日、ある人への返信メールに書いてしまいました。

何でもない時に読んだら

恥ずかしくなってしまうような
夢見る少女っぽい言葉ですが

心がよろける悲しい時には
素直に言えてしまいます。

それなりに真理なのだと思います。


去ってしまってもう戻ってこない時間

逝ってしまってもう会うことが叶わない人

どちらも失われてしまったもの。
失ってしまった理由は「時間」による制約。

けれどどちらも思い出として残っている・・・



思い出は概して幸せに感ずるもののこと

嫌な思い出は過去の嫌な「経験」としてしか残りませんよね


楽しい時間は素早く過ぎる…

(この幸せな時間が永遠に続いたらいいのに…)

この場合は「幸せ」をリアルタイムに実感しています。



けれど
ほとんどの場合

幸せを実感するのは
もっともっと先。

長い時が経ってから

(ああ、あの時、あの時間こそ「幸せ」な時間だったんだ…)

と知るところになります。

そしてもう一度、あの幸せな時を再現したくなります。


でも、長い時が流れたあとでは

もう、大切なひとはいなくなっていることも

まだ、大切な人が命を永らえて待っていてくれることも。


もう会うことが叶わない人に
語りかけても
言葉はもうかえってこない…

優しい言葉も厳しい戒めも

そして
わかっていたつもりの寂しさの波に
心は呆気なく さらわれる・・・

ああ、あれが幸せだったんだ…と気付く。
遅かった…と思う。

でも、その幸せはちゃんと
思い出の心箱の中に・・・。


ちょっと探し出すのに
時間がかかるようです

その心箱をひらくと
出てくるのは

虚しさを貼り付けた幸せ

時間が経つにつれきっと・・・

虚しさの面は薄らぎ
幸せの面が濃くなるに違いないのです。



まだ生きていれば、命があれば…

語りかければ
たとえ恨みつらみをぶちまけたとしても

何かが返ってくる。

それが幸せ
そしてそれがやがて…

思い出に。



「過去をずるずる引きずって歩んでいる」
と表現すると
とてもマイナスな暗いイメージ

「過去の思い出に支えられて歩んでいく」
といえば
とても明るい前向きな感じに聞こえます


今を生きているのに
今はすぐに過去になる…

未来は希望よりももっと大量の
壁や障害が待っている。

むなしいくらい
次から次へと辛い絶望もやってくる

でもそれを
乗り越えたとき

乗り越えられなくても

誰かと心が通じたとき

その障害も絶望も
「思い出」

それはやがて
「幸せ」に・・・

なっていくんだな…と
しみじみ思う 今は2012年の5月・・・。


「スーパームーンと青い空」
の…これは序章、プロローグ。


2012年5月5日土曜日の夜・・・

帰宅途中にみえました。

大きな大きなまるい月。
いつもより大きなまるい月。

月と地球が大接近


その日その朝
空はぬけるように真っ青で

空にはひとかけら
ペガサスみたいな雲ひとつ


201205051212ペガサス写真中サイズ

この日
紺碧の空を

どこまでも高く高くのぼっていった
ひとつの小さな魂がありました・・・


(続く)

眞對れいこ

父は船乗り・・そして思い出横丁

  • 2012.01.24 Tuesday
  • 01:44

 

 

 

 

 

2012年1月24日

父は船乗り・・

 

そして思い出横丁

〜ある絵画との不思議なご縁へ〜

私の父は昔、船に乗っていました


私の父は 昭和3年生まれ。
もう5年前に78歳で亡くなりましたが

昔、鳥羽の商船学校を経て、船乗り・・・
というか、海上保安庁におりました。


終戦を迎えた時、父は17歳
もともと商船学校に入ったのは、
第二次世界大戦がまだまだ続くと思い、
海軍に入る決心をしたためとか。


しかし、戦争は終わり・・・。

それでも
父は船が好きでした。

当時、日本から外国に渡ることが難儀だった昭和30年ころ
外国航路に乗組員としてハワイに行ったりもしていたそうです。

そういえば・・・
家にカラカラに乾いた「ヤシの実」がひとつありましたっけ。

海上保安大学校 巡視船「こじま」初代クルーの中に
父の若き日の姿を見つけることができました。

(下のURLをクリックすると、そのサイトにとべます)

http://www.jcga.ac.jp/shisetu/kojima/1_02.html

同じ写真をこちらにも掲載・・・

巡視船こじま初代クルー

巡視船こじま初代クルー中 




 

 

 

 

 

 

 

 

巡視船こじま初代のクルー

 後列…
 画面向かって左から4番目が私の父

 そして父の隣…
 左から3番目が私の母の兄
 つまり私の伯父さんです

 (伯父は、定年まで海上保安庁を勤め上げ
 2010年秋の褒章で瑞宝単光章というご褒美をいただきました)

 

父は親友の妹と結婚したのでした・・・。


私の4歳上の兄が生まれたばかりのころ
父母は海上保安庁青森(第二管区)の官舎にいましたが

 

新宿の闇市(現在の新宿駅)でお店をやっていた…父の父と、父の義理の兄。

義理の兄が亡くなってしまったため

 

海上保安庁を辞職して新宿の思い出横丁で店を継がないか?」という実父からの勧めにしたがい…
父は半ば強制的に船を降ろされ、転職させられることになったそうです。

私の父は祖父の店の後を継ぐことになり
不本意ながら船を降りたそうです。

父は29歳
母はまだ23歳。


新宿の思い出横丁

戦後の闇市バラックから始まった「米田屋」。
安いオカズを出すご飯屋さん。
今ではその一角は「思い出横丁」と呼ばれて
賑わっています。

もともと父の祖父が始めたらしいその店を
継いで守っていたのは・・・
父の父…つまり私の祖父。
それを助けていたのが父の義兄。

父の兄は、父にとっては父親違いの兄。

なんだか難しいですね・・・
系図。

ところがその父の義兄が若くして急死・・・
かわりに
5人兄弟の真ん中の
私の父に白羽の矢が立ってしまったのでした。

「船などという足が地に着かない職業なんてやめてしまえ!」
と自分の父(私の祖父)から言われ、父はやむなく
大好きな船を降りたと聞いています。


それからというもの
父は過酷な職業転向に辛酸をなめたようでした。

大好きな船を降り、国家公務員の安定した職を捨て・・・

一転、しがない「めし屋」。



「新宿・思い出横丁」

思い出横丁写真今でこそ、昭和のレトロがウけて
かえって好印象、復興した一体ですが、当時は。

ヤクザさんとか、もうぐちゃぐちゃで、
治安もけっして良くはなく

一本気で曲がったことの嫌いな
バカ正直でぶきっちょな父は
大変苦労したようです。

昼から仕入れ仕込み。
夕方から深夜までの営業
片づけ。

夜な夜な酔いつぶれんほどに飲み
帰宅は明け方3時4時。


きっと
「こんなはずでは・・・」

と、
自ら手放してしまったものの大きさを痛感し
自分の人生を呪わないよう

若い時分、忘れようとしたんだな…
お酒を呑んで。

と父の心がわかるようになったのは

ここ最近です。



もう父はこの世におらず。
皮肉なものです・・・



でも父は米田屋をこよなく愛していました。
私も、米田屋を誇りに思って育ちました。


ご飯屋さんをやっているからといって
料理が上手というわけではなく、
父は家では全く厨房に立たない人でした。

お湯すら沸かしたことがなかったような・・・。


私が小さいころ、父はいつも隣の部屋で「寝ている人」
でした。



ある意味、私は父との接触が無く、
父無し子供のような気持ちでいたことを思い出します。


店は新宿駅に隣接する思い出横丁

住まいは淀橋・・・今の都庁が立っているあたり。
十二荘の近く、今は無き淀橋浄水場からほど近い
それはそれは田舎な新宿。

淀橋浄水場 ↓

 新宿駅のほど近く、浄水場があったのです。
この浄水場の手前が私の生家のあった淀橋。
向かって右側が現在実家のある西新宿(当時・柏木)

淀橋浄水場

今では高層ビル群が林立する一体ですが
そこはまるで都会とは縁のない
田舎も田舎、原っぱだらけの土地。

1964年4月玲子2歳のコピー2歳の私→
この場所は現在、都庁が立っているあたりです


私は新宿生まれの新宿育ち。
「淀橋(よどばし)」という町名のまるで「村」のような田舎で生まれ育ちました。

淀橋浄水場跡地の土手に
すすきやヤゴを採りに行ったり。


私は生粋の「淀橋」人。

どれくらい「きっすい」かというと…

淀橋幼稚園
淀橋第一小学校
淀橋中学校


とすすみました。

淀橋という地名は
徳川第三代将軍家光が発した言葉によって
付いた地名だそうです。

今の都庁付近にあった

 

十二荘(じゅうにそう)池に架かる橋を見て将軍家光は・・・
「大阪の淀川に架かる橋に似ている」
的な発言をなされ、それにちなんで

「淀橋」。

私が小さいころ

現在の新宿警察は「淀橋警察」
現在の新宿税務署は「淀橋税務署」
現在の新宿消防署は「淀橋消防署」

という名称でした。

ちなみに「ヨドバシカメラ」というのも
地元の「淀橋」の地名をつけたカメラ屋さん。

思い出横丁前身のバラックで
米田屋とかと店を並べて商売していたのが
あんなにデカくなったのだそうです。

すごいですね・・・。


私は幼稚園年長さんの時
淀橋から移転。
青梅街道と甲州街道を結ぶ道路ができるため、
立ち退きの憂き目に遭ったのです。

「柏木」(今の西新宿7〜8丁目)に引っ越しました。

そして小学3年のとき
町名変更で、柏木も淀橋も角筈も無くなり、
「西新宿」という味気ない町名に変わり。

1975年玲子中2やがて京王プラザホテルが建ち

新宿KDDビルが建ち
住友三角ビルが建ち
新宿三井ビルが建ち
野村ビルが建ち
次が安田火災ビル
新宿センタービル


中学2年の時の集合写真の背景に
建設途中のビルが写っています。

真ん中が野村ビル
向かって右が三角ビル

他の高層建造物がなく
すっきりしていて今となっては妙な感じ。

淀橋中学校の屋上で撮った2年B組の写真です。


写真に写っている音楽の長瀬先生とは
まだ年賀状やり取りを続けています。



私の家は高層ビル群のすぐ近くなので

ビルが建った順番は
自分のことのように覚えています。



さて、父と母の話に戻ります・・・

父は40年、米田屋を頑張りました。
歌舞伎町や市役所前にも支店を出し
忙しい日々でした。

一切飲酒をしない母はそれは厳しく
私たち兄妹3人を育てました。

「水商売をしているウチの子供」
だからこそ、規律正しく、堅実に。

大和魂をもった堅い母。

生真面目でストイックな母は「清貧生活」を貫き
私も兄も妹も
それはそれは戒律厳しく贅沢は無し
質素につつましやかに育てられました。
(私だけはどうやら「反動」?が起き?)


私は社会人になっても
「思い出横丁」に足を踏み入れることは一切禁じられて育ちました。
(実は内緒で行ったりしていましたが)

道端で立ち話もしない母
外食もしない母
装飾品など身につけも持ちもしない母。

店を手伝い
父不在で家を切り盛り

大変さは追って知るところ。

そんなでしたから
米田屋の・・・

「米田屋」の写真が残っていない!

思い出横丁家事


1999年の思い出横丁大火災
の時は
米田屋の隣のうなぎ屋さん「カブト」まで類焼がおよんだものの

米田屋は無事燃え残り。
当時、思い出横丁役員だった父は
火事場の取材でテレビ報道にもちらりと写りました。

そんな父も寄る年波・・・


父は2001年に店を閉じました。


仕事をしなくなった父はみるみるうちに
老いが進行し

2006年の冬
しずかに逝きました・・・



今は無き米田屋。


気がつけば米田屋の写真が無い!

ネットで調べても
2001年以前の写真など、とにかくないのです・・・

ところが
「思い出横丁 米田屋」で検索したところ

一枚の絵画にたどり着きました。


橋本礼奈
(北海道出身の画伯)さん
が思い出横丁の絵を2枚描いていらっしゃったのを見つけました。

その題名もずばり「米田屋」。

橋本礼奈画伯にコンタクトをとりました。
ご了解をいただき、その絵をここに掲載させていただきます。


橋本礼奈思い出横丁米田屋カラー

最初に一瞥したとき、
素敵な光の「写真」と見まごうほどの絶妙な光彩。

でも、写真じゃない。

不思議な希望の満ちたこの絵

出会い・・・を感じました。


あの数ある店店の中から米田屋を題材に選んでくださり

絵として完成させてくださった橋本礼奈さんの心意気に
涙が出るほど嬉しく。

橋本礼奈さんの他の作品にも惹かれています。
独特な画風で
観る者の心を魅了する作品ばかり。



橋本礼奈さん(画伯)の2001年の作品

http://city.hokkai.or.jp/~reina/gallery/2001/2001.html


橋本礼奈さんのサイトは
http://city.hokkai.or.jp/~reina/index2.html


橋本礼奈さんのスゴイ絵は・・・
http://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/e/c765cc81e3f21a940562bc072e7d58f1

ぜひご覧ください。


私は橋本さんとお話できる機会がいつかやってくるのを
心待ちにすることに・・・。



そして、この絵に出遭った翌朝
私は辛い事実を知ることとなりました

これは運命?

その話はいつか話す日が来るでしょうか・・・。


長くなりましたので
今日はこの辺で。

次回は
「新宿までの青い空・・・そして見つけた父の遺品の航海スケッチ」
(2012年1月4日のお話)




ドラマ『ハングリー!』に触発されて作った
 『アジのマリネ・ディル風味』
 『生牡蠣のバジルマリネ』ほか
↓眞對作^^;2012年1月22日の晩御飯


20120122フレンチ風01

20120122フレンチ風02

でいきます!


※最後にひとつ・・・。

 「思い出横丁」の通路のコンクリート地面

 「トイレ」という文字と
 「あしあと」型のペイントがまだ残っていたら・・・

 それは昔、私が高校生のころ
 父に頼まれて描いた型紙でペイントされたものです。
 つまり、私の「作品です・・・。

 もし、発見されたかたがいらっしゃいましたら
 ご一報ください。



眞對れいこホームページ↓
http://www.shiroikabasan.com/



眞對れいこ

 

 

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