謝罪・追悼・母の臨終・つぶやき
- 2017.06.24 Saturday
- 23:34
2017年6月24日(土)
謝罪・追悼・母の臨終・つぶやき
伏せりながら書いた長々つぶやきです
お時間のない時にはお読みになりませぬよう…
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昨日…某 有名人さんが
乳がん・転移で亡くなった…と
スマホが ポロン と鳴って
Yahooニュースが知らせて来ました
私はそのかたのブログを見たことはないです
そのかたの…同じ病のたくさんのかたの苦しみ。違う病の…たくさんのかたの苦しみ…たくさんのかたの心の苦しみ
自分など比べものにならないほど苦しみ…を抱えるたくさんのかたがたがいらっしゃる
自分はつぶやきを書くくせに癌の闘病記は、どなたのも読んだことがなく…。誰かお一人だけのつぶやきを選ぶことができず、特に有名人さん。のブログを読んだことは一度もなく。
しつこくてごめんなさい ^^; ↓
自分は2012年からつぶやきを書いています
記憶の記録のため…なのかな
自分が弱いから…誰かに支えて欲しいから?家族がいるくせに欲深い…かな
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Yahooニュースの そのお知らせには反応してしまい、いつもは観ないワイドショーを観ました
やはり…報道されていました。某 有名人さんのご逝去
ブログまで…(^^;; 一部がテレビ画面に大きく写し出されていました
同じ病で…この報道を観て聴いているかたの心のありようも危惧しつつ…観ていました
その有名人さん。まだ…34歳という若さ。。
34歳と言えば…私がピアノ教室を開いた時の年齢で、忘れもしない阪神淡路大震災の年…はかり知れない悲しみの年
私はそれから22年以上生きられ、病気になってもピアノを続けています。医療に感謝です
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乳がん・転移。。
同じ病で亡くなった母のことをまた…鮮明に思い出してしまいました
母の命を盗りにくる死神から
守ろうとして
守り切れなかった
ホスピスでの最期の夜のこと
あの夜の…誰にも頼れず、母に付き添う者が他に不在で…ひとりぼっちでいた時間の悪夢…心の中でいつもループし続けています
母の病気は…手遅れになってから見つかった乳癌でした。多方に転移してしまいました
◆母をホスピスで看取った2012年5/1
発表会の翌日から3週間だけレッスンを休んで
ホスピスに泊まり込むことを
生徒さんに許していただき
家族にも許してもらい
ずっと母をさすり続けていました
もっと長生きすると信じていた兄・妹・私。
母自身が、子供たちの迷惑にならぬようにと自ら望んで入ったホスピス。
ホスピスを退院させて妹の家で介護する…そんな手配をしていました
最期の時を迎えることなど信じられなくてホスピスに泊まり込み、ひたすら さすり続けました
まだまだ、元気そうに思えたけれど母の終末期の苦しみ。
自分の辛さを感じている今
当時ほんとにはわかってあげられなかったと後悔しています
母はまだまだ…生きられる。生きて退院できる!ような気がして…。
回復し妹の家で暮らすこと。最初は拒否していた母でしたが、だんだん、まだ生きられることを信じるようになって…
母は前向きになり
私は泊り込み、さすり続け
妹は母の自宅受け入れ準備を。
兄は長男として母や妹達へチカラを。
ところが日に日に母は食べることができなくなり、口に何も入らなくなり
やがて水分を飲むことができなくなった時、私は知人の在宅医療の看護師さんに電話して訊ねてしまいました。
医者は余命を教えてくれない。食べられないのに栄養剤の点滴はない。
その時、それが当時の私にとっては最大の…緩和ケアへの疑念で…転院または無理やり退院させてもらうことを考えて質問したのです
今ではわかっています。その状況での栄養剤の点滴はもっと短命にしてしまうこと。が、その時はホスピス側の対応に違和感がありすぎ、泣きながら医師にうったえたりもしました
この状況で栄養分を入れてしまうと癌がもっと活発になり本人が苦しむだけです
…という医師の説明に口出しはできなかったのでした
水分と痛みどめの点滴のみ。栄養を与えてくれない…餓死するのみではないの?
「食べられず、飲むことができなくなったら…あと、どれくらい生きられるの?病院側がおかしいんじゃないの???」 と、知人看護師に状況を説明し訊ねました
「飲むことができなくなったら…あと…2週間くらいかな…」
と、その知人の看護師さんからの言いにくそうな返答
それが母が亡くなる3週間ほど前のことでした
さすり続けて日は経ち、母は2週間を超えた!母は死なない!
…と、命の永らえに奇跡が起こる可能性を感じました
ところが飲むことができなくなって3週間めに母の容態は急変
5/1の午前2時ごろ母の苦しそうな呼吸が始まりました
私は その はっはっはっはっ…という浅い呼吸が死のサインとは知らず看護師さんを呼びました
看護師さんは「ご家族を呼んだほうが」と。
…真夜中でした
私の兄妹や家族を呼ぶ電話での状況説明がヘタ過ぎた。
もう死が近いことを電話で説得する勢いが弱かったのだと思います
逝去の日より11日前…4/19
危ないかも…ということで
子や孫が全員そろったとき、母は一度生還していたから…もあり
皆も母はまだ死なない!…と思っていたからかもしれません
私の真夜中電話の伝え方の下手さ
看護師さんはけっして 死が近い、とはおっしゃらなかったため、私が死の直前だと認識できていなかったからかもしれません
母と私だけの真夜中の部屋
兄妹も家族も来ない
医師は一度も来ない
看護師さんもそんなに頻繁には来てくださらない
泊まり込んでトイレの介護もありの患者さんは他にいらっしゃらなかったからでもあるかと思います
他の患者さんのお世話があるためなのはわかっていましたが誰かに支えていて欲しかった…。
誰も助けてくれない
医師も来てくれない
苦しそうなのに酸素マスクもつけてくれない
ホスピスって…むごすぎる
そういう風にしか感じられなかったです
看護師さんは間もなく母が死んでしまうこと、わかっていたはず。
死に関してはド素人の知識の無さと心がわかってくださったなら。
私が死の近さをわかってきたのは
はっはっはっはっ…の浅い苦しげな呼吸が3時間ほど続いた時。
泣きじゃくりながら再度、兄に電話しました 「お母さんが死んじゃう」
悠長な状況じゃないこと
本当に死にそうなこと
呼吸が苦しそうなのに
病院側が酸素マスクをつけないこと
医師も一度もこないこと。
兄は「わかった。すぐ行く!」
泣きながら母をさすり続けながら母の耳元で静かに…南国の花園や海の風景の話をしながら
看護師も医師も来ない
母を 誰も助けてくれない
世界中の誰からも見放されたような孤独感。
辛い地獄の時間でした
午前6時半ころ…兄が到着
すると。。
それまで目を閉じていた母が魔法にかかったように…かっと、と目をあけ、兄の手を握って、言葉にならない言葉を発し、また目を閉じた瞬間
みるみるうちに さーっと母の顔から血の気がひき土気色に。。
…
死ぬ瞬間、血が巡らなくなるって。
こんなにわかりやすい怖ろしい変化なんだ…と
悲しみというか不思議な虚無感に包まれ取り乱し私は声が出せませんでした
その時、兄が叫びました
「まだだ! まだ死んでない!!お母さん!お母さん!! 戻ってこい」
その直後 奇跡が起きました。
兄の叫び声に反応したのかもう一度だけ…ほんの数十秒間でしたが、母の顔に血の気が戻り息を吹き返したのです
途切れた呼吸が復活した時の何にも代えがたい歓び…
けれどまた呼吸は止まり
…
もう目は開かれることはなく
静かに…血の気がひき
土気色の母の顔には生きている色は戻ってきませんでした…
もう二度と呼吸が再開することはありませんでした
長男が到着して5分後に…逝った母
きっと強い意志で兄を待っていたのですね
そしてお別れを果たしたのですね
それから私はどれだけ泣いたのか妹が駆け付けるまでの経過記憶ないです
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私の今までの親不孝。会いにもいかず仕事に明け暮れてた自分
それに比し
生前、父母に親孝行をたくさんし続けてくれた妹にはまだ幼い子がおり
母の死に目には間に合いませんでした
妹に申しわけなかったという思い
母の通院への付き添いは全て、妹がやってくれていたのに。私は仕事と家事の忙しさを理由に一度も。ただの一度も母の通院の同伴にいかず自宅へさすりにも いかなかったのです
私は自分の親不孝さに後悔一色でした
泊まり込みの さすりは二週間……4/16から5/1で終わってしまいました
さすり・トイレ介助、母は喜んでくれていました。長女に毎日さすってもらえるなんて…と何度も母に嬉しそうに言われるたび、妹に申しわけない思いはつのりました
今までずっとお母さんの面倒を見ていたのは…お母さんを恋人のように大好きだったのは妹のほうだよ、お母さん。妹の前で…私が来てくれた…と嬉しそうにしないでお母さん。妹がかわいそう…
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傷ましい福知山線事故から7年目の 4/25 には
少し認知症のようになりかけテレビをぼうっと観ていた母が急に私の手を握って
自分は幸せだ…と言い出しました
テレビの中の泣いている女性…事故で長女を亡くした…とあるお母様の涙を…痛感して母は私に言いました
この人は理不尽な事故で
長女を亡くして泣いている
それなのに自分は今
長女にさすってもらっている
自分はなんて幸せ…
母が私にくれた
最高のプレゼントでした
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5/1の早朝に亡くなった母
最期の入浴をさせてあげるしきたりのホスピスで
妹と私でホスピスの大きなお風呂で母を洗ってあげました
ぐちゃぐちゃになった魔物に巣食われた患部
どんなに痛かっただろう
どんなに不安だったろう。
どんなに…
。。
母の遺言がひとつありました
自分が死んでも
遠隔地の実兄にも知らせないで。
近所にも知らせないで
夫(私の実父)の親戚にも知らせないで
あなた達の友人や会社にも知らせないで
…
哀しいほど小さな小さな葬儀
葬儀が終わるまで親戚にも友人にも 誰にも言わないで
母の遺言をまもり、葬儀まで誰にも言わずにいることは辛くて
ひとりにだけ心をこぼして
ひとりで泣いて泣いて湖ができそうなくらい泣いた数日とその後。
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同じ病で母の半分未満の若さで亡くなった
小林麻央さんに追悼の意を捧げます
死のほんの何日か前まで飲むことができていたこと、テレビで報道していました
飲み込むことが相当な苦しみのはずの中、人参ジュースを飲み込まれたのだと思います。作ってくれたお母様へのできる限りの思いやりだったのだと思います
そしてお若い方の癌の進行の速さ。ただただ傷ましいです
同じ容態のかたがたくさんいらっしゃること本当に傷ましいです
転移する前の早期発見の大切さを思います
私も…肺腺癌が見つかったときには既に骨転移。癌髄膜炎・脳転移が判明してからいろいろな障害が出始めています
おとといから固形物を何にも食べられなくなり、例の ビタミンジュースだけで生きています
吐き気がひどく、平熱なのに頭の痛さからくる熱っぽさ・腰椎穿刺の直上の背中の痛み・だるい苦しみの悪化
レッスン中に吐き気が止まらなくなった今朝。朝 9:25からレッスンしていましたが、嘔吐が激しくなり座っていられなくなり…12:45以降のレッスン急遽中止…
連絡がうまく行き渡らずご迷惑をおかけしてしまった複数の生徒さま…。ごめんなさい…(>_<) はこちらなのに。たいへんな思いをさせてしまったのに。。
あたたかい返信をくださって逆に励ましてくださって胸が熱くなりました ごめんなさい…ありがとうございます
実は今週 6/20の夜も…19:20以降のレッスンを急遽中止してしまってました
その時も嘔吐の酷さによる中止でした。ごめんなさい (>_<) 21:30からは多少回復して勉強塾だけやりました
…
風邪とか感染させてしまう嘔吐ではないです
食欲が復活することも確信しています
嘔吐が続いてる理由はおそらくトラマールというオピオイド系…(麻薬系)の薬の副作用だと思っています。痛みは遠のくけれど酷い嘔吐の連続
麻薬…というのは法律上の用語
オピオイド…というのは薬理上の用語です。
オピオイド=麻薬ではないです
日本の法律上での麻薬を含むことが多いですが、そんなオピオイド系の痛みどめの処方が始まっています
トラマールは用心して服用しなくちゃ。体重は さらに 1kg減ってヤバさを感じています。ビタミンジュースより高カロリーな…自分が吐かずに飲める飲料見つけたとこです。それで頑張ります。私はまだまだ…頑張らなくちゃ。頑張ろう!目標があると強くなれます
長々書いてごめんなさい…今日、レッスン中止して帰宅して、伏せっていたのだけれど眠れなく…家族とともにお掃除をして、記録、反芻、謝罪、追悼、現状…休み休み綴りました。読んでくださってありがとうごさいました…
眞對れいこ🐟
皆様からの最近の
コメントは非公開にしてますが
皆様からのコメント全部読んでいます
ありがとうございます
- 父母のこと
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